入院することになった。
うすうす病気だろうなとは気付きつつも放置していたら、やはり深刻だったらしい。医者から「これはもう、手の施しようがありませんね」と言われたときはドラマや何かのようで、自分の人生にそんなことが起きるのかと笑ってしまいそうになった。不謹慎にも程がある。
いわゆる不治の病というやつらしい。医者がどうしようもありませんという顔をしても、私は存外冷静で「不治の病ってまだあるんですね」などと言った。医者は重々しく頷いた。説得力ある頷き方だった。
「医学や科学がどれだけ発展しても、病気の方もより複雑になっていきますからね。いたちごっこのようなものです。しかしそれが、我々が患者を救うことを諦める理由にはなりませんが」
「でも私は、助からないんですよね」
私の発言に医者はまた、説得力をもって頷く。
「薬を投与すれば症状の改善や病気の進行を遅らせることはできます。何よりそのまま日常生活を送ることは大変危険です。入院することを薦めます」
構いませんよと私は了承した。まるで仕事終わりに同僚から飲みに誘われたかのような気軽さだった。そんなだから病気になったのだろうな、ということは頭の隅で理解した。
入院の手続きを済ませ、最低限の着替えや必要なものらを病室に持ち込み、私の入院生活は始まった。両親はどちらもすでに他界し、配偶者もいなければ恋人もいない。当然子どももいない。遠方にいる友人らに入院の報告をすべきか迷ったが、何だか見舞いを催促しているようで躊躇って、やめた。不治だが見舞われるような病気でもない。
入院着に着替え時間を持て余していると、看護師が来て検査があると言う。検査の時間まで三十分ほど時間があった。ならばゆっくりしようかと病室のベッドに仰向けに転がる。
病室にベッドは一つしかなかった。壁も天井も床も白く、ベッドのシーツに皺ひとつつけるのも申し訳ないくらいの清潔感があった。私一人の病室にしては広く、開け放した窓から風が吹き込み、カーテンを揺らしている。カーテンの隙間からは遠く海が見える。
自分が病であることを忘れそうになる。
がたん、と音がした。窓の方からだった。体を起こし、窓を見やる。
少女が、窓の外からこちらに入って来ようとしていた。
手を窓枠にかけ、もう片腕は何かにぶら下がっているのか、上に突き出している。窓の外に張り出した柵に右足をかけ、左足は宙ぶらりんになっている。一瞬天使かと思ったが、違う。少女は紺色のセーラー服を着ていた。人間か、と安堵のような落胆のような気持ちになる。室内に吹き込む風に、スカートがばたばたと音を立てた。なぜかセーラー服のスカーフはしてなかった。
「こんにちは」
間抜けな挨拶をしてから、これは不法侵入に当たるのかな、とまた間抜けなことを考えた。
「何、してるの」
少女は柵に掛けている右足に力を入れ、窓枠を掴んでいる手でバランスを取りながら、ゆっくりとぶら下がっていた左足を室内に入れた。両足を室内に入れ安全を確保してから、体ぜんたいを重力に従って滑り込ませる。
少女が病室に侵入する一部始終を眺めてから、手を貸してやるべきだったと気付いた。気付いたがどうしようもない。再度「何してるの」と問いかけた。
少女は私を認め、今頃慌てたように視線をうろつかせた。俯き、小さく「ごめんなさい」と言う。
「屋上に行ったら、扉が開かなくなっちゃって。降りられないから、スカーフを手すりに巻きつけて。ここの窓が開いていたから。降りたの」
はて、確かにこの病室は最上階だが、そんな危ないことをせずとも非常階段はなかったのだろうかと思った。
多分少女も慌てたのだろう。突然屋上に閉じ込められて、咄嗟に思いついた脱出方法がそれだったのだろう。
「よくそんなこと思いついたね。スカーフを巻くのだって、大変だったでしょ」
言いながら、何だか褒めるべきことや言うべきことはこれではないな、と感じる。
「付き合っている人が、あ、前に映画で観て、知っていて」
少女は相変わらず、落ち着きなく視線を彷徨わせていたので、私は少女に向かって微笑んでやる。これまでの人生で初対面の人とこんなに親しげに話したことがあっただろうかと自分自身に疑問を持つが、まあ、私はもうすぐ死ぬ身であるし許されるだろう。
「病院には何の用で来たの」
「友達が交通事故に遭ったから、お見舞い」
「そう」
少女が上目遣いでちらりと私を見た。
「お姉さんは病気なの」
「まあ、」
そういえば私は入院着であった。それと同時に、自分がお姉さんなどと呼ばれる年齢であることも意識した。どうも自分の年齢に対する自覚が足りない。
「そんなもんだよ。今日から入院」
「そうなんですか」
「そう」
そこで、会話は途切れた。
少女は居心地悪そうに体をもぞもぞさせたあと「あの、私もういいですか」と言った。私は、ああ、とか、うん、とか曖昧な返事をして、所在なさげに手をひらひらと振った。病室から、今度はきちんと扉を通って出て行く少女を「またおいで」と見送った。
あとで考えれば、なぜ「またおいで」などと言ったのか分からなかった。今日みたいなことはもう起こらない方が良いに決まっている。最後まで適切な言葉を掛けてやることができなかった。
数年前まで病院の受付は人間がやっていた。だいたいは女性。今でも個人経営の病院や僻地の病院なんかの受付には人間がいるが、私が入院している大学病院のようなところになると、もうそういった事務処理は機械の仕事になっている。宙に浮かぶ実体のない液晶画面に、患者は指先で必要項目を入力したり、保険証をかざしたり、自動音声に従えば事務処理が終わる。
しかし、日常的に利用される場所でもこれだけ機械化が進み、科学技術が進歩し、宇宙旅行も当たり前になるほど宇宙開発が進む世の中になっても、〈不可思議〉は存在する。というか、あらゆるものごとを論理的に説明できるようになればなるほど〈不可思議〉の不可思議さは増し、それらは輪郭を持ち、質量を持ち、影を持つようになった。
初めて天使が私の前に現れたのは、丁度病気の症状が出はじめた頃だった。夜中、インスタントコーヒーを入れて振り向くと、ベランダに天使が降り立っていた。
あらゆるものごとを論理的に説明しようとする人たちは、天使は宇宙人であるとか技術開発に反発する宗教団体の妄想であるとか言うが、ちがう。天使はちゃんと存在し、宇宙人でもなければ、不真面目な仏教徒の私の妄想でもない。
夜を背負ってベランダに降り立った天使を、私は呆然と見ていた。天使は真っ黒なパーティドレスを着ていた。ドレスの裾はぼろぼろにほつれて、夜風になびいていた。ほつれたドレスを着ていても、天使は美しかった。ほつれているのがまるで正しいことかのようにすら感じた。或いはおろし立てのきっぱりとしたドレスであったなら、天使の美しさは半減しただろう。
その日から天使はたびたび1LDKの部屋に降り立つようになった。天使にまたおいでなんて言ったことはなかった。天使はいつだって気紛れに現れては、気紛れに去っていったから。天使が去っていくときはいつも、これが最後だったのかもしれない、と思ったし、天使が部屋に降り立つときは、これが最後かもしれない、と思った。
病室に降り立った少女には果たして「また」があった。意外だった。再会のときは前と同じような気持ちのいい晴れで、開け放した窓から波の音と風が入ってきた。少女はちゃんと扉から入ってきた。
あのときの子だというのは一瞬で分かったが、なんて挨拶をするのが妥当なのかが分からず口籠ってしまった。少女は紺のセーラー服を身にまとい、襟には前回なかった赤いスカーフが巻いてあった。
「先日はすみませんでした」
少女から口を開き、頭を下げられた。そして「これ、よければ」と紙袋を渡された。中にはきらきらした果物が入っていて、見舞いの品だと気付いた。
「食べられなかったら、すみません」
「ううん。食事制限はないから。わざわざありがとう」
座って、と少女にパイプ椅子を薦める。少女が座るときに少女のおもみの分だけ、硬く、強張った音がした。
「聞いてもいい」
少女は、はい、と少し緊張した面持ちで顎を引いた。
「どうして、来てくれたの」
「え」
素っ頓狂な声を出されて、早口に「正直来てくれると思ってなかったから」と付け足す。
「お姉さんがまたおいでって言ったくせに」
「そうだね。そうだけど」
私の問に、少女は虚空を見やり、白い天井を見上げ、視線を下げ、ベッドのシーツについた皺辺りを見た。そしてゆっくり、慎重に「知らない人だから」と発音した。
ほう、と私は嘆息した。そしてそのまま黙る。少女の言葉の続きを待つ。
が、続かなかった。黙る私を、少女は訝しげに見て首を傾げる。仕方なく私は黙るのをやめた。
「知らない人を訪ねるなんて危なくない」
「お姉さんは女の人でしょ」
「女性でも危ない人は危ないんだよ」
「それに、病人は荒っぽいことしないでしょ」
「看護師に手を出す患者もいるって知らないの」
少女は膝の上でスカートをぎゅっと握った。プリーツが縒れて皺になる。
「中途半端な知り合いよりも、タクシーの運転手の方が本心を話せるってこと、あるでしょ」
「はあ」
相槌を打ってから、少女が俯いていることに気付いて「なるほど」と付け足した。つまるところ私は保健室の先生ぐらいの立ち位置らしい。
そう思ったところで、突如視界が真っ暗になる。ああ、またか。薄れる意識の中で遠く、少女の声と波の音が聞こえた。
「だ、」
気付くと私は少女に肩を支えられていた。気を失ったのは数分程度らしかった。気絶した直後特有の、頭に靄がかかったような感覚になる。少女の細く小さい手が、肩の骨に食い込んで少し痛い。考えがまとまりきらない。呂律が、なんとなくだるい。遠く聞こえる波の音が、窓から聞こえる音なのか脳内で鳴っている音なのか、判然としない。
「大丈夫ですか」
心配気に覗き込む少女に、申し訳なさと、もうこの子は帰さなきゃいけないということだけがはっきりと分かる。ごめん、と小さく呟いた。
「帰って」
思ったよりつっけんどんな言い方になってしまった。片腕をベッドに突き体を支え、少女の手をやんわり外す。少女を真っ直ぐに見上げて微笑みかける。
「ごめんね。話すの、キツくなっちゃった」
見上げた少女の瞳は怯えていた。その怯えで、私も自分が〈不治の病〉であることを思い出した。忘れていた。
「よければ、また来て。お見舞いに来てくれる人なんて全然いないし、私は暇だから。来てくれると、」
うれしい、と言いかけて「たのしい」と言いなおす。
少女の目の中にはまだ、心配と怯えが混ざり合っていた。優しい子だなと靄のかかった頭で思う。
なんだかんだいい年であるので、今まで男性と付き合ったことは何度かある。しかしあるとき、ぱったりと恋愛をやめてしまった。たとえば会話の端々に甘い匂いを漂わせたり、男性の些細な仕草に胸を焦がしたりするようなことを、ぱったりと、やめてしまった。
特にきっかけはなかったと思う。異性経験で特別嫌な思い出もない。ただ、そういうことができなくなってしまった。そういうことをするには特殊なエネルギーが必要で、普通の人は心の中にエネルギーを蓄えて、心がときめけばエネルギーの保有量はもっと増え、エネルギーの質が良くなり、もっとときめくことができる好循環なのだろうけれど、私はあるときぱったりと、エネルギーが枯れてしまった。恋愛に限らず、心をときめかせることそのものが、おっくうになった。ときめきだけではない。何かに一生懸命思い悩んだり、夢中になって苦しんだりすることが、できなくなった。笑って人とすらすら話すことはできるのに、心がどうしようもない力に奥底から動かされることはなくなった。
そのことを自覚したとき、戸惑った。戸惑ったがすぐ、それでもいいかと楽観的になり、無性に眠くなった。眠気に従って眠った。眠りは深く、重く、黒く、夢一つ見なかった。
目が覚めたときには丸一日経っていた。
それから私は徐々に、目覚めることが難しくなってしまった。
どちらかと言えば脳よりも心や精神の病気なのだと医者から説明を受けた。心がもう起きていたくないと強く願い、脳に影響を与え、生命活動が緩やかに死へ向かっていく。眠りはどんどん長くなり、いずれ目覚めなくなるでしょう、と。
そのとき私はすでに、長くて二週間は眠り続けるようになってしまっていた。更に酷いことに、眠気は予測不能のタイミングで私を襲った。シャワーを浴びているときに眠くなってしまったときは、溺死も覚悟した。
長く眠ればその分栄養も摂れない。何よりまともな日常生活が送れない。眠りがこれほどまでに進行してしまえば、今更心に働きかけても無意味だと言う。心の願いは根深く、ちょっとやそっとではどうにもできず、その前に眠ってしまうでしょう、と。
心がもう起きていたくないと願っている、という自覚が無かったから、無意識下で行われた、それはそれは根深い願いなのだろう。心に合わせて脳や体が死ぬ準備を始めてしまうとは、なんだか文学的な病気だと思ってそのまま「文学的ですね」と呟いた。医者は無視した。私も、何も言わなかった振りをした。
医者から病気の説明を受けている間は、なぜそんな自殺願望を心が持ったのか思い当たらなかったが、少女が恋愛の話をしたとき、そういえば自分は長らく恋愛というものをしていなかったと思い出した。
既婚者なんです、と少女はぽつりと零した。付き合っている人、既婚者なんです。
少女はあれから、見舞客が誰もいない私の元をたびたび訪れてくれるようになった。優しい子なのだろう。初めて会ったときも、交通事故に遭った友人の見舞いと言っていた。聞けば、件の友人は怪我こそしたが元気そのものだったらしい。
私と少女はさまざまな話をした。風邪のときに食べる林檎の話、体育館の匂いの話、火星の話、飾りのない指輪の話。少女はいつも私の言葉に一つ足して返してくれたし、私の返答にもころころと笑った。
その日は、午後から雨が激しかった。家電製品が立てる音のような低い雨音が室内にも満ちていた。ふと、以前1LDKの部屋で、私が奮発して買った首の細いワイングラスにオレンジジュースを入れて氷を浮かべていた天使のことを思い出した。何の気なしに少女に、ねえ、天使って信じている、と聞いてみた。瞬間少女はサッと表情を硬くして、いえ、と一言だけ言った。もしかしてあまりこの話題はよろしくないのかしらと別の話にしようとしたら、少女が呟いた。既婚者なんです、と。
ほう、と相槌を打って続きを促すと怒らないんですかと苦笑いされた。驚きはしたが怒るようなことだとは思わなかった。お姉さんって、ちょっと、常識おかしいですよね、と軽口を叩かれたので、お嬢さんもたいがいでしょう、と言い返した。私は少女をお嬢さんと呼んだ。 少女は、ふ、と表情筋の力を抜いた。
急に少女が老いて見えた。
その人がね、以前ウチに天使が来るんだって言ったんです。あたしは天使を見たことがなかったし、天使がいるかどうかも分からなかったけど、いるなら見てみたいと思って。そしたらウチにおいでよって。
でも、嘘だったんです。天使が来るなんて、嘘だったんです。その人、本当は天使を見たこともなかったんです。あたしを家に呼びたかっただけだったんだって。
そういう人なんです。子どもみたいな嘘でしょう。吐くなら、大人ならもうちょっと、マシな嘘が吐けるでしょうに。そういう、人なんです。
その人のこと、愛してるの。私は、慎重に聞いた。少女は、分からない、と答えた。
だってあたしは、本当は天使がいるかどうかなんてどうでもよかったんです。最初からそれが嘘でも、よかったんですよ。
少女は窓の方を見た。つられて私も窓を見た。窓硝子に当たった雨粒が幾筋も流れている。きっと、あそこに掌をべっとりとくっつけたら、冷たく気持ちいいだろうな、と考えていたら少女が、あたし、と口を開いた。
あたし、そのとき初めてその人の家に行って、それで、ようやく既婚者だって知ったんです。
視線をゆっくり少女へ戻す。少女は真っ直ぐに窓を見ていて、その瞳は純粋に真っ黒だった。泣いてはいなかった。
私はベッドから体を屈め、手を伸ばして備え付けの冷蔵庫を開けた。ヨイショッ、とオレンジジュースの瓶を取り出す。私と少女の二人分、マグカップに注ぐ。プラスチック製のマグカップは、ワイングラスより遥かに涼しさに欠けた。
マグカップを少女に手渡す。少女は軽く礼を言って、ちょうどオレンジジュース飲みたいなって思っていました、とはにかんだ。奇遇だね、私もだ、とマグカップに口をつける。口の中が安っぽい甘さでいっぱいになる。
眠りはどんどん長くなっていた。
以前はどれだけ眠っても起きている時間があったから、不治の病なんて言われても楽観的だったが、最近は意識がある時間がどんどん短くなっている。症状を抑える薬を呑んでも焼け石に水だった。
ベッドの上で横になっているだけなので、当然筋肉が衰える。固形物を食べず、点滴で栄養を摂るのでやつれる。はりのなくなった自分の両手を眺め、玉手箱を開けてしまった浦島太郎はこんな気持ちだったのだろうかと考える。知らぬ間に年月を一気に駆け抜け、年を取ってしまったようだった。それでもまだ死への恐怖はなかった。ずいぶん前から心が自殺願望を持っていたなら、もしかしたらすでに死へ恐怖を感じる時期は通り過ぎていたのかもしれない。ただ、眠りに落ちる瞬間はいつも、これで死ぬかもしれない、と思ったし、目覚めたときは、そろそろ死ぬのだろうな、と思った。
少女と話せる時間も短くなっていた。話していても、すぐに気を失ってしまう。わざわざ来てもらっているのに申し訳なくて、いい頃合いだと少女に病気のことを説明した。
「だからもう、来なくて大丈夫よ。来てもお話できないんじゃあ申し訳ないもの」
不治の病であること。眠り続けてしまうこと。心が自殺願望を持っているのが原因であること。最近は起きているのすら難しくなっていること。近いうちに自分は死ぬこと。 そういったことを話した。少女は感嘆のため息を吐いた。
「文学的ですね」
そう呟くので笑ってしまった。「私もそう思うよ」
「聞いてもいいですか」
こんなこと聞いていいのか分からないけれど、と少女は前置きした。
「もうすぐ死ぬって、どんな感じなの」
「そうねえ」少女らしい質問だった。顎に指を当て考える素振りをする。肌が痩せ、顎の線がずいぶん尖っていることを自覚した。
ゆっくりと口を開く。少女の前で、自分に嘘は吐きたくなかった。
「私も、それはよく一人でいるときとかに考えるけど、正直ね、分からない。眠るだけだから。眠るように死ぬって言うでしょう、私は眠ることがそのまま死んでしまうことだから。たくさん遊んで、ああ疲れたって眠くなるのと同じで、起きていることの延長線上に眠りがあって、私にとってそれは、死ぬことと分けられないの」
ゆっくりと、咀嚼するような間があって、少女は言った。
「分からない」
返答に、私は安心した。「正直でよろしい」
「あたしだったら普通に、怖いって思っちゃうだろうな。お姉さんは怖くないんですか」
「怖くは、ないな。きっともうとっくに、死ぬのが怖いなんて思うのは通り過ぎちゃったんだろうね」
「通り過ぎるものなんですか」
「気付いたらね」
ふうん、と少女は頷いた。
きっと理解はしていないだろうし、出来ることなら少女の年で理解などできない方がいい。あらためて骨が浮き立つ自身の右手に視線を落とす。だからもう来なくても、と再度念を押そうとしたら「もう一個、」と少女に遮られた。
「死ぬ前に会いたい人はいますか」
「え」
素っ頓狂な声が出てしまった。
「いないんですか」
「いや。考えたこともなかったから、驚いた」
「嘘。一度も考えなかったんですか」
「本当に。一度も考えなかった」
少女に指摘されるまで欠片も考えなかったことだった。それがなんだか可笑しくて、脱力し、ベッドにだらしなく体を預ける。
「死ぬ前に会いたい人かあ。ロマンチックだね」
「他人事みたいな。ご自分のことでしょうに」
「自覚があったら、死ぬのにもうちょっと危機感持っているよ」
「通り過ぎちゃったからですか」
「通り過ぎちゃったからねえ」
瞼を閉じる。眠くなったからではなく、今まで出会った人たちを思い浮かべるために目を閉じた。
「そうねえ、」
両親、友人、元恋人、恩師、親戚、同僚、先輩、後輩、有名人、すれ違った人、出会った人、好きだった人、嫌いだった人、憎くて堪らなかった人、愛した人。それらの顔を思い浮かべる。顔も思い浮かべられない人もいた。声だけ覚えている人もいた。匂いや雰囲気のような、実態のないものだけがちらりと記憶を掠めた人もいた。ぐるりと記憶の中の一生を赤子まで遡り、現在に帰ってくる。
嗚呼なるほど、と私はそのときようやく思いついて、瞼を開けた。病室の天井が白い。
「私は、多分、もう怒ったり悲しんだり、したくなかったのよね」
首を回す。視界に少女を入れる。
「だから心が、もう死んでしまおうと思ったんだわ」
白い病室の中で少女の制服の紺色は眩しかった。赤いスカーフが目立つ。
「もう、生きることは考えられない。だから死ぬ前に会いたい人はいない。でも眠る前に、お嬢さんと話すのは楽しかったよ」
視界が霞んでいる。今度は眠りが私を呼んでいた。そろそろ私は気を失う。
告白ですかと少女の声がした。それに、そうだよ、と伝えて、完全に目を閉じる。唇から声が出たのか、言葉として少女に伝わったかは分からなかった。
ふ、と意識が浮上する。病室が薄暗い。夜なのか早朝なのか、どれくらい眠っていたのか、生きているのか死んでいるのか、分からなかった。遠くの方から波の音がする。一定でないリズムで寄せて、返している。私は安心しきって、波の音に身を任せる。
がたん、と音がした。窓の方からだった。窓を見やる。
天使が、窓の外からこちらに入って来ようとしていた。ああ、ようやく来たのだ。
天使は相変わらず、夜をそのまま纏っているかのような、黒くてぼろぼろのドレスを着ていた。その黒を見ていると私は無性に、また眠くなった。
天使は身軽にするりと病室に入って、ベッドに横たわる私に近付いてきた。ぺたぺたと小さな裸足の音がする。天使の姿を目にとめたいと思うが、眠くて瞼を開けていられない。重たい瞼が落ちてくる。視界を瞼の裏の暗闇が支配する。遠かった波の音が、徐々に大きくなって聞こえる。
足音が止まる。瞼の上にひんやりとした感覚が触る。天使の手だった。閉じた瞼から、天使の美しく整った手の重みや、内が詰まった柔らかさを感じる。天使に瞼を抑えられ、いよいよ私の視界は黒くなった。波の音がどんどん近くなる。寄せて返し、あくまで穏やかに私を誘う。
きっと今日、私の瞼の裏にある暗闇は、天使のドレスの裾になるだろう。ぼろぼろと風に吹かれ、天使の美しさを構成する一部になるだろう。
波の音は今や耳元で鳴っている。乾燥した体に、海がすみずみまで行き渡っているような錯覚を起こす。
遂に天使の手のひらから、意識を手放した。手放す瞬間、少女は幸せな人生を歩めただろうか、とそれだけが気になった。