人を殺した理由が「殺せそうだったから」であったならきっと世間は俺を精神病質者扱いするだろうなということは佐伯も何となく分かっていた。確信がないのは世間の反応を実際に己の目で見ていないからで、まだ世間は佐伯が人を殺したのを知らないからだった。佐伯はベッドシーツの皺をひと撫でする。つい三時間前、人を殺してきた。
中学生位から佐伯は人を殺す妄想をよくした。特別な原体験があったのではなく、それは年齢とともに自然に発芽した。前触れなくふと嗚呼今殺せそうだなと感じ、実行する訳にもいかないから妄想の中で殺す。殺したいという明確な慾望よりも湧き出る衝動に近かった。妄想の中で殺す対象は不思議といつも母親と同年齢くらいの熟女で、老女でも年若い娘でもいけなかった。佐伯は母を憎んではいなかったし寧ろ愛していたから何故自分の衝動の矛先が熟女であるのかは分からなかった。妄想の中で熟女を殺すときの感情は決して憎しみではなかった。歪んだ性慾でもなかった。それでも、弾力を失いはじめた、それでいて完全には水気が失われていない絶妙な均衡を保った肌や、日常の働きで太くなった脆そうな手の骨を見るにつけ嗚呼今殺せそうだなと思ったし、脳内で殺すときは熟女の身体の奥底にある、表面には現れない〈女〉が溜まっているであろう内臓のことを思ってうっとりした。他人に話すべきではないことは理解しつつも、佐伯は自身の内なる慾自体に疑問を持ったことはなかった。妄想の中の佐伯はいつも俊敏で、熟女のどこをどう扱えばいいのか良く分かっていた。板前が魚を捌くように、いっそ儀式のような神聖さを持って、佐伯は妄想の中で熟女を殺していた。
シーツの皺に沿って指を滑らせそのままベッドに横になる。どことも知らない安いラブホテルにいた。部屋の内装を紫やピンクで纏めているのが如何にも安っぽかった。佐伯はすでにシャワーを済ませ、今は一緒にホテルに入った相手がシャワーを浴びているのを待っている。目を閉じてバスルームの水音に耳を澄ます。肌に触れるシーツは冷たくて余所余所しかった。シャワーを浴びているのは佐伯よりも年上の男だった。職業は知らない。名前も教えてもらったが、本名でない可能性の方が高い。佐伯は三時間前にした殺しから、これから男とする行為について考える。
佐伯には中学生の頃から抱いてきた妄想よりも自分の性別の方が不可解だった。自分は立派な男だ。女に成りたいと思ったことも一度もない。男に抱かれるなんて、我ながらどうかしている。それでも佐伯は男に身体を許してきた。
自分と同性である筈なのに同学年の男児らが女に欲情する意味が分からなかった。佐伯と同学年の中学生男児が性に敏感になり教室の隅でアダルト写真誌を広げ、下世話な猥談で盛り上がっているのが心底理解できなかった。最初は彼らを小馬鹿にし内心で嘲笑した。しかしそれは理解できないものに対する逃げの姿勢でしかなかった。中学生から高校生にかけての成長期で佐伯はさほど背丈が伸びず、体格もずっとひょろひょろと頼りない侭だった。対して周囲の男たちはぐんと背丈が伸び、筋肉がつき、背中が広くなり、骨格は鎧のようだった。同性だが、彼らと佐伯では身に詰まっている質量が違った。その違いを佐伯は理解できなかった。理解できないが故に恐れ、同時に惹かれた。女が男に惹かれるのと同じ感情か、と思ったが、男に対して頬を染める彼女らの一途なそれと自分のそれは明らかに違うし、男が女に見せる顔は嫌いだった。それならば自分はゲイか。しかし、自分が男として男に惹かれているのか自信が持てない。佐伯は自分を彼らと同じ性別に分類することができなかった。分類に困り、持て余し、気付いたときには佐伯の男に対する感情は一般的な〈友情〉の定義からは大きく外れるほど肥大し、それでいて〈恋愛〉に当嵌めるには歪過ぎた。佐伯は自身の中で拗れた感情を、時には遠くから冷静に観察しようとし、時には突き放して追い出そうとした。だが男性性への歪んだ感情はすっかり佐伯の習慣にこびりついて、遠ざけることも追い出すことも叶わなかった。他人に定義されれば少しはマシになるかと佐伯は男に抱かれることを良しとした。形は違えど佐伯のような男は行為の相手として一定の需要があったのでパートナーを探すことには苦労しなかった。良しとした後でも、矢張り自分はどうかしていると感じた。回数を重ねれば違和感は拭えるかと期待した。回数を重ねても矢張り違和感は存在した。それでも男に抱かれること自体に嫌悪感はなかった。嫌悪感のない自分が、更に違和感だった。
意味の分からないものが好きなのかもしれない、と佐伯は暫定的に結論を出している。バスルームから出てきた男が佐伯に近寄ってくる。その歩幅は佐伯よりも大きい。足の指の爪は固く、色が濃い。男は性急に佐伯にのしかかって口付けた。普段は穏やかな男だったが、理性と野性の間は曲線では繋がれていなくていつだって急だった。まるでスイッチのオンオフのように切り替わり、それでいて何が彼の野性のスイッチを押すのかが分からなかった。分からないから好きだった。
口付けも身体を弄る手も佐伯にとっては酷く不愉快だった。不愉快なのに、その強すぎる刺激がなくなると無性に寂しかった。男の唇も手も乾燥し、無駄な肉は一切ついておらず、代わりに肌の内の筋肉と骨の存在を間近に感じた。どれだけ触っても触られても男の体の構造を何一つ理解できなかった。妄想の中で何度も殺した熟女の身体の方が余程理解できた。男の息遣いだとか体臭だとか受け止めきれない程の情報を零さないように、佐伯は五感を全て目の前の男に捧げ、強すぎる刺激の渦に真っ逆さまに身を投げた。
妄想の中と実際に人を殺すのでは矢張り勝手は違った。妄想の中ほど佐伯は俊敏ではなかった。実際に殺したのは妄想と同じく熟女だった。何度もシュミレーションしている相手なら簡単に殺せそうだった。だが簡単ではなかったばかりか、佐伯が期待したものの八割を現実の熟女は持っていなかった。佐伯は現実を〈知って〉しまった。
殺した直後もう二度と現実の熟女を殺すことはないだろうなと予感した。相変わらず妄想の中では殺すかもしれないけれど。
「人でも殺してきた?」
行為が終わり、不意に男が言った。佐伯は思わず笑ってしまう。
「何故?」
「そんな匂いがした」
「ご自身の加齢臭では?」
もし血の匂いが付いていたとしても佐伯は男と会う前に一度シャワーを浴びてきているし、それと分かるような痕跡は消してきた。人殺しに関しては佐伯も初心者だが一般人が見て分かるようなサインは何もない。男の発言は完全に当て推量だった。
男は尚もウーンと唸る。佐伯の隣で仰向けに寝る男の、眉間から鼻にかけての輪郭がベッドサイドランプの光で淡く浮かび上がっている。無骨で無造作な曲線。視線でそれを辿りながら再度何ですと問いかける。
「いつもより野性に近い感じがしたんだよねェ」
気の所為かなァなどと間延びした呟きをしながら男は腕を伸ばしてランプの明かりを消してしまう。
男の喉仏の輪郭が、部屋が暗転する瞬間カメラのフラッシュのように浮かび上がって佐伯の脳内にこびりついた。輪郭だけで、相変わらずその内の構造を佐伯は理解できなかった。